昭和五十七年十月十三日 朝の御理解


御理解第九十六節 「世の人があれこれと神のことを口端にかけるのも、神のひれいじゃ。人の口には戸が閉てられぬ。先を知ってはおらぬぞ。いかに世の人が顔にかかるようなことを言うても、腹を立てな。神が顔を洗ろうてやる」


 「神が顔を洗ってやる」と仰せられる。最後に、この「神が顔を洗って下さる」と言うほどしのおかげを、皆が一つ頂きたい。神様の願いは、そういうおかげを受けることを、神様の願いとなさっておられるだろうと思います。
 そんならば、どういうことがあっても、信心を頂いとれば、神様が顔を洗って下さるようなおかげが、誰でも受けられるかと言うとそうではない。結局、人の口には戸はたてられん。様々な、笑われたり、それこそ戸はたてられないようなことがことがありましても、世の人がとやこうと言う。また、言われる時に、いよいよ改まり、いよいよ研き、いよいよ精進させて頂いて初めて、顔を洗って頂けるおかげが、いやあなるほど神様じゃなというようなおかげが頂けるのです。人がとやこう言っておったけれども、さすがに、やっぱ神様じゃなあというふうに、この、言われる時こそ、神が顔を洗って下さった時だと思うんです。だから、信心しておればね、みんなが顔を洗ってもらえるようなおかげを頂かなきゃならんけれども、その精進なしにはおかげは受けられんと思う。
 私は思いますのに、信心とは、結局、各自各自の持つ、まあ御粗末と言っていいでしょう。御無礼と言ってもいいでしょう。そういう、御粗末と思い、御無礼である、これが人間のすることかと言うたり、思うような自分自身をね、感じます。浅ましい自分であったね。信心をさしてもらって過去の一切が生きてくる。その、生きてくるということが、顔を洗ってもらうということだと思うんです。 信心さして頂いておると、過去、んなら、これは私一生のことをじいっとこう思ってみますと、まあ本当に、御粗末だらけの私であったなあ、御無礼だらけの私であったなあ。その、いや、まあ御粗末とか、御無礼とかじゃ、言葉が足りないように、本当に浅ましい限りの私であったなあと思う私がです。その、浅ましかったこと、御粗末であったこと、御無礼であったことのおかげで、一切が、今日あるということになりますとね、過去の御粗末であった自分というのが生きてくるんです。だから、信心とはね、もう一切、どんなことで、そりゃまあ忌まわしいことであってもね。どんなに恥ずかしいことであっても、御粗末御無礼なことであってもね、それが生きてくるという信心。
 昨日は、体の調子が悪くて、寝させて頂いとりましたら、もう本当に、自分の覚えとる一生のことをいろいろ様々に、まあ思わせて頂く機会をまあ得たわけですが、本当に今日の御理解じゃないですけれども、もう、恥ずかしゅうして、御粗末で、御無礼で、まあようあんなことで罰かぶらじゃったことと思うような自分自身を、いろいろはっきりと、こう、はっきり、鮮明と、自分の過去を見た思いでございましたが。
 だから、私、その、神様っていう方は、もうどんな人間であろうとね。一度一心発起して、信心の道によって助かろう。信心の道によって、いよいよ信心生活にならしてもらおうと一心発起して改まったら、もう誰でも生神様になれる道だと私は思いますね。だから私はそういう意味で、私のような者でも生神様になれるんだという一つの手本をね、作っておかなきゃならんというようなことを思いましたね。そこに初めてね、過去にそういう忌まわしいとか、御粗末御無礼ということ、そのことのおかげで、次の問題がある。
 今日の御理解で言うと、それが人から笑われたり、悪口を言われたり、叩かれたりということになってね。笑われて賢こうなれ、叩かれて強うなれと言われる。叩かれるたんびに、笑われるたんびに賢うなれと、本当なことへ、本当な方へと、こうなっていく。そこにね一切が生きてくるね。本当にどういう、言うならば、私の、こうして、御取次をさして頂く身となったわけですから、もうどんなしてども、御取次頂いて助かろうということになったら、だから助かられるということ。
 私が、初めから神様のような人であったり、仏様のような人であったら、もうそんな特別な人じゃなからなきゃ助からんね。私のような者でも助かるんだというね証拠を、教祖金光大神の御教えによって証しを立てて、そして、私でも生神様になれるんだね。そこには勿論、私は、改まりがあるかぎりですけれども、その過去の一切をね、生かすということね。
 そこに初めて、神様が言うて下さるね「神が顔を洗うてやる」、と、おっしゃるような、ああ成程神様じゃなあとみんなが言うたり感心したりするような、おかげが頂けると思うんです。信心しておれば。ただじいっと辛抱しておけば、神様がいつかみんなに分からして下さるといったような、生やさしいもんじゃないように、今日は私は思うたね。
 そして、信心とはどういう過去を持っておってもです。その過去の一切が生かして頂ける道が、私は、まあ御理解だと言ってもいいわけですね。過去の一切が、言うならめぐりが大きければ大きいだけおかげも大きいという。めぐりが大きい、めぐりがそのままであったり、いつまでたってもおかげが大きいとは言えない。そのめぐりのおかげで修行が出来る。めぐりのおかげで大きな改まりが出来るから、めぐりが大きければ大きいだけおかげも大きい。力も大きく受けられるということになるのです。
 私達の持っておる過去も、「詫びれば許してやりたいのが親心」とおっしゃるのですから。私共が一心発起して、もう生神の道を、ただひたすらに、一歩進んで行く行き方を信心生活の上に頂き現していくという。そういう行き方には、例え人がね、もうそれこそ人の口には戸はたてられないというような、どういう噂の中に、例えばありましてもね、そんなことものともせずに、ただ生神への精進。この生神への精進ということがね、それがなかったらね、私は、顔を洗って下さるようなチャンスにも恵まれないし、おかげも受けられないと思いますね。
 もうとにかく、「信心は日々の改まりが第一」「信心は本心の玉を研く」とこう言われるが、その本心の玉を研く材料とし、日々の改まりの材料として、日々の私共の、過去にまあ犯したと言うか、御粗末であった、御無礼であった、自分が今日の私である。そういう過去というものが、そういう御無礼・御粗末が、のおかげで、今のようなこの難儀があるとするならば、そのおかげでね、改めて行くことによって、精進していくことによってね、おかげが受けられる。神様も顔を洗って下さってね。神様も喜んで下さることだとね。私共も勿論そこに、有難いおかげの世界があるわけであります。 まあ、今日は、結局、私のような者でもこういうおかげが受けられる。私のような者でも生神へ目指していくことが出来るという信心のね。それぞれの段階においてですね。ここまでは、私でも登って来れたんだというようなものをね、おかげと共にね、それを、まあ頂いていく、示していく。そういう信心を頂きたい。
 本当に、神様が顔を洗って下さるという。成程神様じゃなあとね、皆さん、まあ言うなら、悪う言う、汚のう言うた人でもね。ああやっぱり神様じゃなと。さすがに神様じゃなと言って頂けるようなおかげを頂きたい。そして現していきたい。しかも、それは、もう限りがない。これまた、限りがないですね。ですから、その限りがない。その焦点というかを、限りないものにおいて、お互い、信心させて頂くのですからね、これでよいということはありませんけどね。
 お互い、自分の持っておる御粗末御無礼がね、そのおかげでという時に初めて、その過去の一切が生きてくる。過去一切を生かして行けるのが、私はお道の信心だと思いますね。
どうぞ。